モスチキン
今夜はモスチキンを食べている。
久しぶりのモスチキンはとても美味しい。
鼻腔を奇跡が突き抜け、脳がその匂いを確かめるより早く、私の頬には涙が流れていた。
おそらくロゴマークを視覚で捉えた時点で、楽園に誘われていたのだろう。
紙パッケージをパリッと破いた瞬間、走馬灯を見た。
まだ私が赤ん坊だった頃、ラッパのおもちゃのかわりにモスチキンを咥えていた。
小学生に上がる頃には、ランドセルにモスチキンをぶら下げていた。
中学生の頃にはバットの代わりにモスチキンを振っていた。
色恋を覚える高校生の頃にはモスチキンと手をつないで登下校したものだ。
上京を決めた時、モスチキンと今までにない大喧嘩をした。
「うちじゃダメやと?うちと音楽どっちが大切やと?東京じゃなくても、宮崎で音楽やったらいいやん!」
私は、これ以上君を不幸にできないよと言い残し、モスチキンと最後の夜を過ごした。
雨音は私たちの関係にピリオドを打っていた。
シングルベットの軋む音は、私達の息を同じBPMでかき消した。
窓の外を通過する車のヘッドライトはモスチキンの背中を照らし、汗はスパンコールのように光っていた。
未来というでっち上げられた世界に、私は夢や希望も持てず、興奮という瞬間に身を投じたのだから、全てを掛けてでもモスチキンを守るとは言えなかった。
私と違って、モスチキンには友人がたくさんいた。
中には、こんなにふてくされて生きている私でさえも輝いて見える男もいた。
なぜ私のような人間を、モスチキンが好いてくれたのかは今でもわからない。
ただ、モスチキンには、私ではなく、もっと穏やかに生きていける人と幸せになってなって欲しかったのだ。
カーテンも無い私の部屋を朝日が照らす時、私とモスチキンは目を覚ました。
或いはモスチキンはすでに目を覚ましていたのかもしれない。
モスチキンは衣を羽織り、キッチンでインスタントコーヒーを淹れた。
いつ買ったかも覚えていない私のインスタントコーヒーの賞味期限を確かめて、「まだ大丈夫だね」とモスチキンは笑った。
夜勤のアルバイトをしている私を気遣って、モスチキンは私の寝ている昼間の時間を避けて会いに来てくれるので、自然と二人の時間は夜だった。
まさか、最後の時間が朝だとは思っておらず、寂しさで締め付けられながらも、少し恥ずかしい気もした。
「美味しいね」と笑うモスチキンの笑顔を、はじめてぎこちないと感じた。
同時に、ぎこちなく笑う人をはじめて愛おしいと感じた。
この時間がいつまでも続けばいいと思ったが、身勝手に別れを告げた私が、そんな事を言える訳もなかった。
もう明日は無いのに、最後の瞬間なのに、「バイバイ」としか言えなかった自分を私は恨んだ。
せめてモスチキンにとって、最後だけはロマンチックだったと思わせるような言葉を言いたかったのだ。
しかし、モスチキンは鼻で笑ってため息をついた。
いつものモスチキンだ。
こんな時は、呆れた顔で「また連絡するね」と言って、普段から部屋に鍵をかけない私を見越して、鍵をかけて去っていくのが当たり前だったが、今朝は違った。
「もう!バイバイ!」少し頬を膨らませて、モスチキンは走って行った。
何も上手く演じることのできなかった私はタバコに火をつけた。
灰皿の横に、モスチキンが駅前で勝手に作っていた合い鍵が置かれていた。
私はそれで心に鍵をかけた。
お願いだから、涙よ溢れるな!と言い聞かせなが、鍵をかけた。
しかし、私のボロアパートは建て付けが悪かったようだ。
そんな、私の少し塩味の効いた、モスチキンとの過去を思い出した夜でした。
ではみなさん、お悩み相談そろそろお願いしますね。